プログレと八月と選択の話

 まだ僕が何者でもなかったころ、週末になると西新宿の輸入レコード店や吉祥寺のライブハウスに行っていた。地元では聴けないような奇妙な音楽に出会うために片道一時間以上かけて通った。日々自分の中でふくらんでいく衝動的な感情やイメージをまだうまく扱いきれずにいたけれど、それでもそういった思いを手探りで再構築していくとそれはどうやらプログレッシヴ・ロックの姿になるらしいことに気づいていた。インターネットがまだ一般的でないころ、地元のCDショップやラジオで得られない音楽はJRの切符を買って自分からさがしにいくよりほかなかった。
 
 その頃のライブハウスで見る人たちは、みんな才能にみちあふれていて、魅力的で、どこかねじれていた。不良っぽいわけではないし、ロック雑誌で見るようなスタイルともちがう。どちらかというと生真面目で不器用な印象を受けるのだけれど、いざ楽器を弾きはじめると超絶的にうまかったりして、それまでの人生で出会ったことのないタイプの人たちだった。
 
 当時、吉祥寺界隈には彼らによって形成されたひとつの音楽シーンが存在していたように思う。演奏技術で切磋琢磨するだけではなく、リズムアレンジやシンセサイザーやオルガンの音づくり、ボイシングなど、おたがいに認めるミュージシャン同士が影響をあたえあって濃縮されていく。それがくりかえされるうちにいつのまにか世界中のどこにもない独自の音楽がつくりあげられていった。残念なことに、いま当時のシーンをリアルに追体験できるCDはとても少ない。DTMがまだ十分発達していなかった時代、CD製作ができるバンドはごくわずかであったし、納得のいく環境でレコーディングできるバンドはさらに少なかった。
 
 僕はそういったシーンにおいてひとりの観客にすぎなかったのだけれど、幸運にもあるバンドでギターを弾かせてもらえることになった。練習初日に、何者でもなかったただの大学生が、自分よりずっと年上の、シーンの中心人物たちが待ち受ける場所へ向かう電車のシートで感じていた、ひりつくような気持ちはいまでも思いうかべることができる。
 練習スタジオで待っていたメンバーは実際に会ってみると想像とはまるでちがっていた。それまで僕は音楽で何かをなしとげるには、意地と見栄を原動力に必死になって練習し尖った感情を抱えて上を目指していくものだと思っていた。ところが彼らはその横で鼻歌でもうたうように楽しそうにしながらはるかに高いところに行ってしまうような人たちだった。これはいったい何だろうととても混乱した。
 
 彼らの音楽はプログレシーンの中においても異彩をはなっていてイギリスやアイルランドのトラッド・フォークの影響を強く受けた当時としては唯一の存在だった。その中で女声ボーカルのYさんの存在が特に大きかった。リラックスした空気の中で生まれる音楽はとてつもなく優しく、世界中の人にちょうどひとり分ずつ小分けにされた愛を届けるような魅力的な歌声を持っていた。実際、彼女はインディーズでわずかな作品をリリースしているのみにもかかわらず遠い国から多くのファンレターが郵送されてくるくらい人気があった。
 
 自分の中で整理がつかないような圧倒的な才能を前にしてうちのめされつつも僕はいっぺんでファンになってしまった。そして表面的な部分でまねをすることには意味はないだろうが、なにか少しでも良い影響を受けられるように考えた。注意深く見ていてだんだんわかってきたことは、多くのミュージシャンは音楽作品をプロデュースしようとするが、彼女の場合はそれ以外のすべてにおいても独自のセンスをゆきわたらせて生き方すべてがプロデュースされているように見えるということだった。
 
 生活する中で選びとるひとつひとつの小さな選択肢に気を配り、明確な意思をもった決定を積み重ねていくことで統一した世界観をつくりあげていた。ブラックコーヒーを飲むかイングリッシュティーにするか、幻想文学を手にとるか画集にするか、カメラのレンズを建築に向けるか水面の光に向けるか、そういったところからすべてに隙がなく完璧にプロデュースされているようにも見えたが、彼女自身は単に好きなものを本能的に選んでいただけなのかもしれない。それは音楽活動やそれ以外のさまざまな時間をすごすなかでもまるで破綻することがなかった。
 
 そのとき出会ったミュージシャンたちとはその後もよく集まってライブに出演したりしたのだけれど、なぜかオリジナル曲を演奏する機会はほとんどなかった。実際にやってみるとわかるけれど継続的にオリジナル曲をリリースするということはとてもエネルギーを必要とする。それゆえにメンバー全員のモチベーションやスケジュール、気持ち的な余裕などさまざまな折り合いがつかないとなかなか続けることはむずかしい。みんなそれなりに年長者であるということもあり、生活を支える本業は別にもち、家庭もだいじにしながら音楽をやっていたので、オリジナル曲中心の活動はできなかった。そのためメインのバンドは一旦休止しておいて、無理のない範囲で海外の楽曲をアレンジして楽しんだりするようなスタイルだった。それはそれでとても充実していたけれども僕はいつかこのメンバーでオリジナル作品をリリースすることを望んでいたし、他のメンバーもそういった気持ちは持っていたと思う。
 
 そんなふうにゆるくつながって時々ライブをやったりすることは十年くらい続いただろうか。何ヶ月も連絡をとらなくても、ふらっとまた何かやろうよと声をかけたらまたすぐに集まるような関係だった。
 そのころ僕は、本業のベンチャービジネスの仕事でかなり疲れ果てるような時期が続いていた。ネットバブルも一段落つき、誰もが思いつくようなことを一日早く考えついたやつだけが数日の間生きのびるような勝者のいないぎりぎりの競争に意味を感じなくなってきていた。それはバンドメンバーから影響を受けた牧歌的な世界とは対極にあるように思えた。もっと自然が近くにあり時間のゆっくり流れる環境で目の前の人の役に立つような仕事をしたいと強く感じた。なにも知らない場所で最初からひとつずつ自分なりの選択をしていくことを望んだ。だから僕は周囲にはほとんど伝えずに東京を離れて北の街へ移り住むことにした。
 
 新しい土地に少しずつ慣れてきたある年の五月、久しぶりにYさんからメールが届いた。メインのバンドを始動するから参加してほしいという内容だった。多くのファンから復活を望まれていたグループである。それは僕にとってもすごく魅力的な誘いでずっと参加したかった特別な名前のバンドだった。しかし地理的にも遠くなってしまったし、生活の基盤をようやく築き始めているところであったために時間的な余裕もなく、そのときは良い返事ができなかった。いまはタイミングがとても悪い。もう半年もすればいろいろと余裕も出てくるかもしれない。
 結局このときはメールを一通返信しただけでそのままになってしまった。ただ、そんなこともあったので、ひとりでもできる範囲で少しずつ音楽活動を再開しようかという思いは生まれてきて、曲のアイデアも浮かんでくるようになってきた。いつかまた機会があれば一緒にやることもあるだろう。そんな気持ちだった。
 
 八月の終わり頃、次に届いたメールは彼女の訃報だった。
 最初それはなにが書かれているのかまるで理解できなかった。ポットにたっぷりのお湯をわかし濃いコーヒーをいれてそれをゆっくりと時間をかけて飲み干した。メールの内容に変わりはなかった。
 
 それからもう何年も経ったけれどその日以来いまだにうまいこと音楽活動と折り合いをつけられずにいる。もう自分は本気で音楽をやることはないかもしれない。でも僕はいまでもひとつひとつ注意深くものごとを選択し続けている。自分が自信を持って好きだといえるものを集め、自分の世界にあるべきものを選びとり、そぐわないものを避けて通る。そこで積み上がっていくものは彼女の残したものとは違うものだけれど、外に向かって形にすることはないのかもしれないけれど。たぶんそれが生きていくということだから。